チョムスキーの「反テロ戦争」批判

 

(別所良美:名古屋市立大学)

 

 言語学者として有名なノーム・チョムスキーは社会問題や平和問題にも積極的に発言してきたが、今回のアメリカ主導の「反テロ戦争」に対しても批判的なコメントやインタヴューを行ってきた。20019月から10月初旬までに行われたインタヴュー集が『9.11』として出版され、日本語訳も同年1130日に出されている。

 チョムスキーの立場は明快であり、彼は「あらゆる」テロに反対する。彼はアメリカの公式文書に現れるテロの定義、すなわち「政治的、宗教的、あるいはイデオロギー的な目的を達成するため、暴力あるいは暴力の威嚇を、計算して使用すること。これは脅迫、強制、恐怖を染み込ませることによって行われるthe calculated use of violence or threat of violence to attain goals that are political, religious, or ideological in nature. This is done through intimidation, coercion or instilling fear.(89-90/101)という定義に合致するあらゆる暴力行為をテロとして非難する。そしてこのことが意味するのは、アメリカに対する「9月11日テロ」が許されざるテロ行為であると同時に、そのアメリカが中近東やアフリカや中南米において行ってきたテロ行為も同時に非難されなければならないということである。とりわけ、今回のテロの犯人とされるオサマ・ビンラディンやアルカイダはもともとアメリカが反ソ戦略の一環として育て上げたテロ組織である。ブッシュ大統領が攻撃開始に当たって行った演説にあるように、平和と自由の保護者としてのアメリカが無法者で殺人者であるアルカイダを征伐するといった図式は事実に反する。なぜアメリカがテロ攻撃の対象になったかの理由を、ブッシュのみならずマスメディアも、西欧文化の優越性に対する非西欧、イスラム文化圏の人間の妬みと反感だといった自分にとって都合の良い理由に捻じ曲げて、安心しようとしている。「われわれ憎まれるのは、われわれがどこであっても標準となるべき、資本主義、個人主義、世俗主義、民主主義の『新しい世界秩序』を擁護するからである」(『ニューヨーク・タイムズ』2001.09.14号)とか、「犯人は西側で大切にされている自由、寛容、繁栄、宗教的共存主義、普通選挙といった諸価値に対する憎しみから行動に出た」(同09.16号)という驚くべき分析が行われている。

 アメリカには、自分を「平和と自由の使者」としてテロ集団アルカイダに対して報復戦争を行う資格はない。アメリカ自身が「テロ国家の親玉leading terrorist state」である。「国際司法裁判所World Courtが国際的テロで有罪を宣告した唯一の国が米国であり、米国だけが国々に国際法の遵守を求める決議案を拒否した」(44/45)とチョムスキーは繰り返し指摘している。その他にも米国がテロ国家であり、テロ支援国家であることの例挙げられている。いくつか拾ってみると、90年代のクリントン政権時代に米国は、トルコ政府が自国のクルド人を撲滅するのを支援し、その武器の80%は米国の援助であった(44/46)。1998年8月20日にクリントンが、ケニアとタンザニアの米大使館爆破への報復として行ったアル・シーファ工場の爆撃はテロ行為である。チョムスキーは9月11日テロについてコメントを求められたときに次のように語ったという。「私は、「邪悪さと恐るべき残酷さ」をもって行われた九月一一日の「恐ろしい犯罪」の被害は、1998年8月にクリントンが行ったアル・シーファ工場の爆撃の結果に比肩しうるかもしれない」(45/47)。しかも工場爆撃によって直接失われた生命だけではなく、スーダンの医薬品の50%以上を供給する工場が消失したために、マラリヤの治療薬であるクロロキンや結核患者用の薬、牧場での寄生虫感染薬がなくなり(この寄生虫がスーダンの高い幼児死亡率の一因である)、間接的に多くの人々の命が失われたと言われる。ドイツの駐スーダン大使は、間接的な死亡者数は数万であろうと推測している。しかもアメリカはスーダンにある国連の援助組織のアメリカ人職員を引揚げさせ、国連の推定では240万人が飢餓の危険にさらされているスーダンに「援助の中断」という結果をもたらした(47/49-52)

 しかも98年のミサイル攻撃の直前、スーダンはアメリカ大使館を爆破した容疑で二人の男を拘束し、米国への引渡しを提案していたのである。ところが米国、特に国務省はその申し出を拒否したために、スーダンは二人の容疑者を怒って釈放してしまった。スーダンはこの容疑者と共に、ビンラディンとアルカイダ・ネットワークに関する膨大な資料(主要メンバー200名以上に関する詳細なデータ)を提供しようと申し出ていたのである。その資料を手に入れていたら、9.11テロも未然に防げたかもしれない(/55-56)

 しかしアルカイダはそもそもアメリカが作り上げた組織であった。チョムスキーは、カーター大統領の国家安全保障特別補佐官ズビグニュー・ブレンジンスキーが語った「アフガン・トラップ」に言及している。1978年4月のいわゆるサウル革命によって成立したアフガニスタン民主共和国は親ソ・共産主義政権として成立したが、性急な改革と政権内抗争のために国内は混乱した。タラキ革命評議会議長のもと首相となったアミンは性急な改革を行い、伝統的イスラム社会の抵抗を生み出し、社会主義革命の失敗を恐れたソ連がアミン排除を画策したが、アミンは反対にタラキを殺害して政権の座についてソ連と対立することになる。199年12月27日ついにソ連は軍事介入し、アミンを逮捕殺害して、カルマル政権を成立させた。このような政権抗争の背景をなすイスラム社会の抵抗に米国CIAはひそかに介入し、「ムジャヒディン(イスラム聖戦士)」と呼ばれる民衆のゲリラ組織に武器援助を行なっていた。この反政府ゲリラ組織には他のイスラム諸国からの多数の義勇兵が含まれ、オサマ・ビンラディンもその一人であった。ムジャヒディン勢力に援助しアフガニスタンを混乱させ、ソ連を軍事介入の泥沼に引きずりこませようと米国が画策していたというのが「アフガン・トラップ」である。カーター政権時代から米国がこのような対ソ連戦略をもっていたかの真偽は別にしても、レーガン政権時代の米国のみならずイギリス、フランスそしてサウジアラビア、パキスタンなどの支援をも受けたムジャヒディン勢力がソ連を軍事介入と軍事費増大の泥沼に留め、ソ連経済を疲弊させた点では、アメリカが勝利したことになる。米国がムジャヒディンに与えた携帯式地対空ミサイル「スティンガー」がソ連の大型輸送機や戦闘ヘリを打ち落としたのである。1985年にソ連の書記長に就任したゴルバチョフは、改革(ペレストロイカ)を進めるとともに、アフガン問題の解決へ向け、カルマルに代わってナジブラを書記長にし、「民族融和」「国民的和解」の政治姿勢を打ち出す。1988年4月にソ連、アフガニスタン、アメリカ、パキスタンの間で「アフガニスタン平和協定」が調印され、ソ連軍は同年5月に撤退を開始した。しかしその後もアフガニスタンの内乱は続き、ムジャヒディン各武装組織は権力闘争に明け暮れ、国土はソ連軍進駐時代以上に荒廃した。このような状況の中、パキスタン国境地帯に難民として逃げ込んでいたパシュトゥン人の若者たちが結集し、パキスタン軍の支援のもとイスラム原理主義教育と軍事訓練を受け、94年に「タリバン」を結成した。タリバンは快進撃をつづけ、96年には国土の3分の2を手中に収め、同年9月にカブールを制圧して、ラバニ暫定統治評議会議長のもと政権の樹立を宣言した。米国クリントン政権はイスラム原理主義のイランへの牽制や米石油会社ユノカルのパイプライン敷設計画のためにタリバン指導に接近するが、タリバンの抑圧的な女性政策に対する米国内の激しい反発のために接近を断念せざるを得なくなり、反対に「北部同盟」を支援し、タリバン妥当へと政策を転換した。他方、タリバン政権もビンラディンとの関係を深めていった。――米国はそのつどの自国の利益に一番近い勢力に対して場当たり的に武器援助を行い、その結果がビンラディンのアルカイダといった国際的テロ組織の跋扈であった。

 では、9.11テロ事件に対してどのような対応をとるべきなのか。チョムスキーの基本的な提案は、手前勝手な「正義」を独占し問題を軍事力で解決しようという「国家テロ」の手法をアメリカ自身が放棄すべきだということである。規模の如何を問わず一般市民を攻撃の対象とするテロ行為は許すべからざる「犯罪」である。しかし「犯罪」とみなすなら「適切かつ合法的な対処方法」(24/23)が適用されるべきである。「オクラホマ・シティで連邦ビルが爆破されたとき、犯人は中東の人間だとして中東を爆撃せよという声が上がったが、国内の極右武闘集団が関係していることがわかったとき、彼らがひそむモンタナやアイダホを撃滅抹殺しろという声は出なかった。そうではなく、実行犯探しが行われ、犯人は捕らえられて裁判に付され、判決を受けた」 (21/22) 。テロ犯罪に対しては司法的な手続きによる処理をすべきであり、「対テロ戦争」と叫んで軍事力に訴えるべきではない。国際的なテロ事件に関しても合法的な手続きは存在している。1980年代にニカラグアが米国による暴力的攻撃を受け、何万という人々が死に国土が荒廃したときに、ニカラグアは「国際司法裁判所に提訴し、判決は彼らに有利に出た。裁判所は米国に行動を中止し、相当な賠償金を支払うように命じた。しかし米国は判決を侮りとともに退け、直ちに攻撃をエスカレートさせることで応じた。そこでニカラグアは安全保障理事会に訴えた。理事会は、すべての国家が国際法を遵守するという決議を検討した。米国一国がそれに拒否権を発動した。ニカラグアは国連総会に訴え、そこでも同様の決議を獲得したが、二年続けて、米国とイスラエルの二国が反対した。しかしこれが国家のとるべき手段である」(25/23-4) 。不完全ながらも国連という形で存在する合法的な犯罪処理手続きに米国も従うべきであり、ニカラグアという弱小国家の場合は法的正義を得られなかったが、米国の場合には阻止するものはいないだろう。

 今回米国は少なくとも国連決議は得ているが、決議13682001.09.12)と決議1373(2001.09.28)には「国連憲章に従った固有の個別的あるいは集団的自衛権を再確認しReaffirming the inherent right of individual or collective self-defence as recognized by the Charter of the United Nations」という文言が挿入され、タリバン政権に対する米国の戦争を「自衛の戦争」として肯定しうるようになっている。チョムスキーの立場からすれば、テロ犯罪の追及は「報復戦争」としてではなく、「犯罪を追及する司法的手続き」にもとづいて行うべきである。本来ならば国際司法裁判所に提訴するという手続きを踏むべきである。あまつさえ20011011日の米英軍によるアフガニスタンカブールへの空爆に先立って米国が関係国に提示した「証拠」文書は司法的裁判に耐えるものではなかったという。『ウォール・ストリート・ジャーナル』さえ、米国高官の「犯罪事件とすることが問題ではない。計画はビンラディン氏とその組織を一掃することだ」という言葉を引き、その文書が証拠を示すものではなく、単なる告発状だと指摘している(102/116)。チョムスキーは、米国が国際的な司法手続きを介して犯罪者を追及するという手続きを回避する理由は、同じ手続きによって自分が追及されることを避けるためだと示唆している。彼はインドの女性作家であり活動家であるアルンダーティ・ロイ(Arundhati Roy)の言葉を引いている。

「『米国のビンラディンの引き渡し要求に対するタリバンの返答は、不似合いなまでに理性的である。証拠を出したまえ、そうすればわれわれは彼を引き渡そう。これに対するブッシュ大統領の返事は、『協議の余地はないnon-negotiable』であった。』彼女は、(証拠を示せ、という)枠組みが米国政府に受け入れられない多くの理由のひとつを付け加える。『主犯の引渡しの話が行われている最中に、インドがついでの頼みとして、米国のウオーレン・アンダスンWarren andersonの引渡しを要求できないだろうか?この男はユニオン・カーバイドの会長で、1984年に1万六〇〇〇人を殺したボパールのガス漏れ事件の責任者である。われわれは必要な証拠をきちんとまとめてある。みんなファイルしてある。どうか、彼を引き渡していただけませんか?』」(103/117)
 

 テロを根絶するための国際的な努力は、テロを「犯罪」として位置づける国際的な司法制度を実効あるものにすることであり、その制度の中では米国自ら行いまた支援している「国家テロ」も裁かれうるものでなければならない。チョムスキーが訴えていることは、「国際的な正義」を可能にする国際的な司法制度を確立することである。そうでなければ、現在形成されつつある「反テロ国家同盟」の実態は、強力な軍隊をもつ国家テロがゲリラ的行動や自爆テロしかできないテロ集団を壊滅させ、しかも「無限の正義」という名のもとに武力攻撃を行い、無関係な一般市民の犠牲者や難民を生み出すということに終わってしまうだろう。実際、政権を取る以前のシャロンは2000928日に武装警官を伴ってイスラム教徒の聖地「神殿の丘」を訪れるという挑発行為を行ない、パレスチナ人のテロを誘導したが、首相になったシャロンは、9.11テロ以来パレスチナ自治政府に対してあからさまな国家テロを行い続けている。

 繰り返せば、テロ根絶のためになすべきことは、対等な諸国家が合意する法が支配する国際社会システムを作ることであり、そのために第一歩は米国がその「ユニラテラリズム(自国優先主義)」を改め、マルチラテラルな国際社会のルールに従うことである。ただしこの点に関してチョムスキーは楽観的ではない。ブッシュ政権は当初から、京都議定書からの離脱、「ミサイル防衛」計画のためにABM(弾道弾迎撃ミサイル制限)条約の撤回、南アのダーバンで開かれた人種差別反対世界会議からの退席など、露骨なユニラテラリズムを非難されてきたが、これはブッシュ政権のみの特性ではなくアメリカ外交の基本姿勢であった。「1993年、クリントンは国連に、米国は−いままで通り−『可能なときにはマルチラテラルに、必要なときにはユニラテラルに』行動すると通告し、その通りに行った。この態度は〔当時の〕国連大使マデリン・オルブライトによっても再度発表され、1999年、国防長官のウイリアム・コーヘンは、米国はきわめて重要な権益を守るためには、『軍事力のユニラテラルな使用』を決意していると宣言した。重要な権益には『主要市場、エネルギー、及び戦略的資源への制約なきアクセスの確保』が含まれ、実際の話、米国政府が自らの管轄権下に置こうと決めるものはすべて入るわけだ」(111/126)。チョムスキーはこのように指摘している。米国は、アフガニスタン攻撃のために同盟作りに努力したが、これは米国がマルチラテラルになる可能性を示すものではなく、反テロ戦争という「無限の正義」をかざして自らのユニラテラリズムを臆面もなく世界に押し付けることに他ならない。「〔反テロ〕同盟の加盟国には、黙っておとなしい支持者になることだけが期待されており、対等の参加になることは求められていない。」(111/127)とチョムスキーは警告する。フランシス・フクヤマは9.11テロ直後に『ファイナンシャル・タイムズ』紙上で、アフガニスタンの攻撃を可能にするためにアメリカは諸国家と連携する必要に迫られ、「自己陶酔におぼれることなく」、「アメリカもその一部である世界のあり方を一方的に規定できると考えるのではなく」、「実際の攻撃に対する脆さをもった国という意味で、もっと普通の国になるのだろう」と楽観的なコメントを述べ、それによって米国の今回の攻撃を肯定しようとしている(フクヤマ2001)。このような見解こそチョムスキーが批判しようとするものである。

 

Chomsky, Noam(2001) 9-11 , Seven Stories Press(ノーム・チョムスキー(2001)『911アメリカに報復する資格はない!』(山崎淳訳)文芸春秋)

アル・シーファ化学工場へのミサイル攻撃

 1998年8月7日にタンザニアとケニアのアメリカ大使館がテロリストによって爆破され、アメリカ人2名を含む224人が死亡した。クリントン大統領は、このテロ攻撃をオサマ・ビン・ラディンによるもと断定して、それへの報復を行った。1998年8月20日にアメリカのクルーズ・ミサイル(cruise missile)がアフガニスタンのテロリストキャンプとスーダンのハルツウムKhartoumにあるアル・シーファ製薬工場Al-Shifa pharamaceutical plantを攻撃した。アメリカ政府の発表では、この化学工場はオサマ・ビン・ラディンOsama bin Ladenと関係し、化学兵器「VXガスVX nerve gas」を製造していたとされていた。しかし米国はそのことを証明する明白な証拠を提示することができず、現地の人々は一様に製薬工場だったと話していた。スーダンは工場跡を検査させる用意があると伝えたが、米国は無視した。アメリカのメディアも大使館の爆破被害映像を流すだけで、米国が誤った報復を行ったことについてはほとんど口をつぐんでいた。もし万が一それが化学兵器工場だとしても、アメリカの報復攻撃は国連憲章United Nations charterに違反し、国際法に反する重大犯罪である。The UN Charter permits countries to use force only in "self-defense" against an "armed attack"—an attack which, according to the accepted legal standard, must be so imminent as to leave "no choice of means, and no moment of deliberation."

ニカラグア(Nicaragua)

 1822年にスペインから独立した中米であったが、内部で分裂し1838年にニカラグアとして独立する。1900年代に入ってアメリカの支配力が増大する。ニカラグア内部での政治抗争が続いていたが、アメリカ軍の介入に対してサンディノが抵抗、米海軍を撃退する。1934年アメリカが援助したアナスタシオ・ソモサのニカラグア防衛軍がサンディノを暗殺し、ソモサが国を支配し、1937年に大統領となる。ソモサは1956年に暗殺され、息子のルイスとアナスタシオJr.が国を支配する。ソモサ政府は1972年の首都マナグア大地震の復興に失敗し、民衆の不満を高め、1961年に結成されていたサンディニスタ軍(Sandinista National Liberation Front FSLN)の勢力が増大する。1979年にサンディニスタ軍が政権を獲得。アメリカはニカラグアの反政府組織「コントラContra」を支援するが、1982年に成立したボーランド法によるコントラ援助が禁止される。1984年、米国CIAはニカラグアの港湾に機雷を敷設する。ニカラグアは米国を国際司法裁判所World Courtに告訴し、1986年6月に裁判所はアメリカが国際法を侵犯したと有罪の判決を下す。84年にはサンディニスタ軍のダニエル・オルテガDaniel Ortegaが大統領になる。85年、米国のレーガン大統領はニカラグアに対して経済制裁を行うと同時に、ニカラグアの反政府組織「コントラ」を「自由の戦士freedom fighters」とよび、米国議会の承認のもとコントラに「人道援助」を行う。しかし85年から86年にかけて(レーガン大統領の知らないうちに、ということになっている)CIAはコントラに3000万ドルの武器を提供し、しかもその資金がイランへの武器輸出の代金によってまかなわれていた。イランへの武器輸出はレバノンのアメリカ人人質を解放するための密約のためであったが、コントラへの武器援助も84年のローラン法によって禁止されていた。87年に上院調査委員会の調査報告が出る。(イラン−コントラ事件Iran-Contra Affair)。ニカラグアはその後もサンディニスタ政権とコントラの間の対立が続くが、結局1997年に民主的な投票によってアルノルド・アレマンが大統領に選出される。