第五章 個々の州における政治
複合的構造の連邦を知るために
アメリカの連邦政治は諸州によって構成されていて、まず州を研究しなければ、連邦政治を知ることは無理であろう。これは逆に州の仕組みを分析すれば連邦政治形態は自然に分かってくるのであるのを意味する。そして、その州とは、共同体(コムミューン)から始まり、郡の段階を経て州に成り立つので、まず州の共同体から分析すべきであると考えられる。
共同体の重要性
「共同体の自由は極めて確立されにくいものであるが、また権力の侵害を最も受けやすいもの」(1.124)共同体を自由には発展させたりあるいは強力な政府に対抗するため利用するには、共同体の自由が確立しなくてはいけないことである。しかし「」であるため、「諸観念と諸習慣と不可分に入り混じって、風習の中に入り込んでいない限り」(1.124)、この共同体の自由を存続させるのは難しいことである。また、共同体な自由を持たないと、自由な政治は出来るかもしれないが、自由な精神を持つことまではできないのである。
ここで、共同体的な諸制度の完全な均整が取れているニュー・イングランドを取り上げ、なぜ大なる発展がとげたのか、その社会を把握するとしよう。
ニュー・イングランドにおける共同体の諸権利
共同体のすべての権利のもとは人民である。これはほかの所でも一緒であるが、実際に人民の直接権利行使ができる所はアメリカしかない。その中でもニュー・イングランド州を見ると、公務のすべてを行務委員という者達が、担当しており行制権を強く握っているが、この行政委員は人民の共同体によって選出され、場合によっては会議や投票で決めるため、結局権利のもとは人民である。
共同体の生活についで
このように「ニュー・イングランドの主権者は人民であるが、共同体以外の事柄については服従者」(1.132)である。このことは自由と義務の共存を表すことで自分の自由が保障されるために、同胞との規則を守らなければならないことである。これと同じように共同体は「純粋に共同体的な利益の指導に州政府が干渉する権利を認める人はいない」(1.134)と述べ、共同体の自由を表す。しかし、社会的な観点からの共同体は州に対する義務があり責任がある。
アメリカの共同体は州から何かを命じられたら、その任務を果たす公務員を州に貸す形であり、これがまたヨーロッパーとの大きな違いの一つである。
ニュー・イングランドにおける共同体的精神
共同体の裏にはこれを支持している共同体的精神というものがある。トクヴィルはニュー・イングランドの共同体の美点を二つ取り上げており、その中で共同体的精神を示している。
共同体のあらゆる所で「人々の興味をそそること」(1.136)と述べ、主民の共同体にたいする自発的な精神があるというのが分かるのである。そして、この自発的精神により動いている共同体は強力な独立性を持って与えられた範囲の中で自由に活動ができるのである。このようにして「自らの義務の性質と自らの権利の範囲とにつついて、明瞭な実際的な諸観念を結合してもっている」(1.140)のである。
ニュー・イングランドにおける郡と行政
アメリカの郡とは「任意に区画されており、それぞれの異なる部分が互いに必要なつながりをもっていない一つの団体」(1.141)である。したがって純行政的利益のみを考える。それがアメリカの郡が持つ意味である。
正しい行政が行うためには、権利の分割をさせなければならないとアメリカ人は思っている。「人々はただ社会の権利をその行使において分散させようと考えている。このようにしてアメリカ人は、社会が正しい規制され続け、そして自由でありつづけるために、権威が大きくて、しかも公務員が小さいという状態を達成しようと」(1.145)する。つまり権利がある一人に集中われるのを恐れ、独裁的行政におちられないようにこころがけている。また、より公正な行政を行うために、高い見識を持った市民による「治安判事」が作られ、またこの治安判事によって「高等裁判所」が作られたのである。高等裁判所は権利を持った公務員を服従させる力を持ち、権利から市民を保護するのである。
このように、アメリカの行政は細かく担当を決める一人の役人に権利が傾けないようにすると同時に、高等裁判所により市民の権利を主張するのである。
@九節 アメリカ連邦の行政概説
アメリカ諸州における共同体と郡との構造には地域によってさまざまな相違点がみられる。しかし、その共同体と郡との構造における一般的諸原則の根本は同じであり、同一の思想によって統轄されている。その思想というものは「各人は自分自身にのみ関係することがらについては最上の判断者であり、各人は最もよく自らの私的必要を満足させうる者である」(1.164)というものである。また、原則として、「共同体と郡とはそれらの自らの特殊の諸利益を監視する責任をもっている。州は政治はするが、行政はしない」というものが見られる。
この原理より行政官はどこでも選挙されるものであり、または少なくとも免職することはできないものであるという結果が生み出された。これはどこにも上下の階層性の規則をとりいれさせず、行政権を多数の人々に分け与えたのであった。
行政官の選挙またはその公務の非免職性、行政的上下関係の欠如、社会の第二次的政治内への司法的手段の導入といったものはアメリカ的行政に見られる主要な諸特性であった。
一部、ニューヨーク州のように行政的中央集権の痕跡が見つかる地域もあるが、一般にアメリカ連邦における公共的行政の顕著な特性は著しく地方分権的であることといえる。
@十一節 州の立法権
州の立法権は二つの議院に委託されている。それは上院と下院である。上院は若干の政治的軽罪を宣言し、若干の民事訴訟事件に判決をくだすことによって司法権に参加している。また、下院は行政権には全く参加しないが、公務員を上院に告発する場合に限って、司法権に参加する。
このように立法権を分割することは政治的集会の運動を緩和し、法律の修正のための上告裁判所をつくるということを第一の利益としていた。これらの利益に要約される立法権の分割こそが一義的に必要なものであった。
@十二節 州の執行権
州の執行権は代表者として知事をもっている。州知事は執行権を代表しているが、知事自身のもつ諸権利を行使しているだけにすぎない。また、知事は共同体と郡との行政にはいることはない。そして、彼は選挙によって選ばれ一、二年で任期を終了することで、州人民の多数者と密接に依存している。
@十三節 アメリカ連邦における行政的地方分権の政治的諸効果
二種類の中央集権
中央集権という言葉には二種類が存在する。一つは政治的中央集権であり、もう一方は行政的中央集権である。政治的中央集権とは、法律の作成や人民と外国人との関係といったような国民すべてに共通する諸事項を指導する権力を同一の場所や人に集中させることである。
また、行政的中央集権は共同体の事業などの特殊な諸事項を指導する権力を同一の場所、人に集中させることである。一般に、この二つは相互に助け合い引き離すことができないものであるとされている。また、政治的中央集権は人々を全体の中で孤立させ、一人一人を別々にとらえ服従させるものである。この服従とは力による圧迫ばかりではなく、習慣によって服従させるようにもする。このため、政治的中央集権は国民の生活、繁栄を支えるものであり、国家にとって不可欠のものである。それに対し、行政的中央集権は服従する民族を弱め衰えさせる効果をもつものと考えられている。
行政的中央集権の存在しないアメリカ
アメリカには行政的中央集権は存在していない。(1.177)行政的中央集権が存在しなくても国家は繁栄する。イギリスなどがその良い例であろう。そもそも、行政的中央集権は市民の精神を減少させる傾向をもっており、民族の永続的繁栄を導くことはできないものである。
アメリカでは公務上の上下関係さえもほとんど見つからず、極度の地方分権が進んでいる。しかし、政治的中央集権は最高度に存在しているのである。(1.117)
各州には法律をつくる唯一の団体が存在しており、その周囲に政治生活を創造することのできる唯一の権力が存在している。また、アメリカの立法議会は自らに対して反抗しうる権力を全くもっていない。特権も地方的免除も個人的影響力も理性の権威さえもこれをその進行においてさまたげることはできない。つまり、立法議会は唯一無二の器官として存在している。これは立法議会が多数者によって自任されているからである。(1.178)
このため、立法議会においてはその活動内では自らの固有の意思以外の限界をもっていない。
アメリカ行政の弱点
この強力な政治的中央集権と地方的分権にみられる弱点は細かい点において、いくつかみられる。
一つには少数者を抑圧すべき恒久的武力をもっていないことである。これは、少数者が戦争に走るまで追いつめられていないので、武力の必要性は感じられないのでまだよい。二つめには、州は市民に働きかけるために共同体または郡の公務員たちを使用せねばならないため、緩慢で厄介な方式になり、政治の進行の妨げになりうるということである。
アメリカのような強力な中央集権にとっては、必要に応じて強力で有効な行動手段をとりいれることは容易なことである。(1.179)
そして、このことが最大の弱点といえる。三つめとして、この最高度の政治的中央集権より生まれる権力はすべてのことをなすことができるために、叡智と先見の明を欠くことがしばしば起こることをあげる。(1.179)
つまり、この権力が滅亡する恐れがあるのはその力が強大であるためであると考えられる。
アメリカに見られる粗野な力
アメリカ連邦には人々を監視するような一律的諸規則が存在していない。そのため、そこでは社会的な無頓着と怠慢との大きな実例がときどき起こっている。成功するために不断の注意と厳密な正確さとを必要とする有用な事業がしばしば放棄されることがある。これは、人民というものは一時的な努力や突発的な衝動によって行動するからである。(1.183)
しかし、アメリカほどは社会的福祉をつくりだすために大いなる努力を断乎として払っているところはない。(1.183) 有効な学校、住民の宗教的欲求と密着している教会、整備されている共同的諸道路といったものの建設にアメリカは成功している。これらのことから、アメリカには計画の一様性や恒久性、諸細事への配慮、行政的手続きの完全さというものは求めてはならない。そこでの生活は動きと努力とであふれており、その力は粗野であるけれども活気に満ちているのである。
地方分権における「政治的諸効果」
トクヴィルがアメリカで最も感心したことは、地方分権の「政治的」諸効果である。
すべての市民たちを永い間同一目的に向かって前進できるものは、愛国心か宗教心しかない。(1.187) アメリカではこの愛国心が強く見られる。アメリカ連邦においては祖国は連邦全体においてどこにでも感じられる。住民は自らの利益と同様に、自国の利益に固く執着しており、国民の栄光を自らの栄光としている。また、彼らは自らの家族に対して抱いている感情のようなものを祖国に対してももっている。これらは彼らの一種の利己主義より生まれるものである。(1.117-118)
また、アメリカ人は公務員のうちに権利をみているため、人間には決して服従することはなく、正義または法律に服従しているといえよう。(1.188)
そして、アメリカ人は行政的権威に頼りきることはなく、自己信頼のもとに自らの力によって行動をなそうとする。このような個人力の活動が社会力の活動に付け加えられると最も集中化され、最も精力的な行政でも実現できないようなことがしばしば成し遂げられることがある。(1.189)
民主的社会における地方制度の必要性
地方制度はすべての民族に有用なものであり、民主的な社会状態にこそその真の必要性が見られる。
民主的社会状態にある国民ほど行政的中央集権の束縛を受けやすい国民はない。その国民は人民の代表者に政治力を集中する恒久的傾向をもっている。この権力が政府のすべての権限をもつとき行政の細事にまで介入しようとする。これが、行政的中央集権を進ませるものであるのだ。